はじめに
すでに日常の生活の中の光景となったコンビニは、街の機能の中に溶け込んだサテライトです。眠らない巨大都市にとってコンビニは、商店の範囲を超えた重要なシステムとなり、各種振込みにATM、宅急便にチケットの購入まで、その便利さ=コンビニは、瞬く間に全国を席巻きしました。防災関係の中には、いざ震災が起きたら、コンビニを食料の備蓄基地や避難センターにすべきという声も上がっています。
コンビニを立ち上げたのは業界17位に低迷していたスーパーの社員、素人軍団で充分な資金を与えられず、まさに背水の陣で切ったスタートでした。敷地30坪ほどの小売店がなぜ成功したのかその誕生物語は、サラリーマンの大逆転のドラマでもあります。
[目次]
第1章 始動 3坪からの出発
第2章 挑戦 アメリカで発見した宝物
第3章 前進 難航する交渉
第4章 試行錯誤 15人の素人軍団
第5章 飛躍 第1号店誕生
終章 快進撃 日米逆転
1章
1971年イトーヨーカドー店舗開発担当から新たな部署への異動を命じられた清水は業務開発室に!わすか3坪スペース予算はほとんどゼロに近かった。
清水はそこで鈴木当時31歳の時に出版販売会社を辞し映像制作プロダクションを設立しようとスポンサー探しの為にイトーヨーカドーを訪れそのまんま中途入社した。ここから2人のコンビニビジネスのはじまりの一歩が踏み出された。この時点ではまだ2人はまだ気づく由もなかった••••
2人はアメリカに新しい事業を探しに行く。
2章
アメリカの大地を長距離バスによる移動がのちに鈴木と清水をアメリカで大流行のビジネスに引き合わせる幸運をもたらす事になる••••
アメリカのスーパーマーケットはどこも莫大な資金を投入した超大型店ばかりだった。シカゴ、ロス、サンフランシスコと日本とはスケールが違いすぎ!具体像につながらない••••
ある日バス移動でトイレ休憩で立ち寄った時に飲み物を買いに訪れた雑貨屋店スーパーとは違い値引きもしないで繁盛している••••
広さは50坪ぐらい年中無休で朝7時から夜11時まで営業しているアメリカコンビニエンスストア••••セブンーイレブン
この店は全米で4200店もある巨大チェーン
1972年5月 アメリカセブンーイレブン本社 サウスランド社を訪れた。
社員数2万人アメリカコンビニ業界NO1
日本の進出は考えていなかったそうだ••••
巨大なサウスランド社も、元はといえば1927年ダラス外にできた一軒の小さな氷屋にすぎなかった••••
この時に2人はすでにコンビニエンスストアの日本展開を考えていた。
3章
1973年サウスランド社との交渉はじまる。
サウスランド社から条件は厳しかった。
出店条件8年で1200出店 ロイヤリティ問題など(ロイヤリティ0.6%)
4章
イトーヨーカドーの会議では日本でコンビニエンスストアを新規出店については、賛成とも反対とも取れる意見が続いた。
その後米国の大手と業務提携する。正式契約の調印が行われて新会社ヨークセブンは急きょ立ち上げられた。2人は資本金1億のうち半分を貯金をはたき必死でかき集めた。
1号店はどうするか•••••
1号店の成功なしにこの会社の未来はない!•••
新しくプロジェクトメンバーを経験のない素人集団で新規事業がスタートした。
アメリカで研修🇺🇸に行く。
研修も終わりメンバーはある物を獲えていた。それは20数冊にも及ぶマニュアル••••
しかし命運のかかったマニュアルの、中身はほとんど、役に立たなかった。
その矢先だった追い打ちをかける不運が訪れた。オイルショックである。物価は急騰した。出店費用は当初の予定の倍になった。土地の取得約50坪の店用地とはいえ作業は難航した。
ある日青年から一通の手紙が•••••
それがやがてプロジェクト進展に大きな役割をはたすことになる。
5章
新聞記事を拝見しました。
コンビニエンスストアという新しい小売店を私の店を改造して始める事はできませんか? 差し出し人の名は山本憲司江東区で酒屋を経営する若者だった。昭和49年
こうしてI号店は山本商店に決まった。
改装費用2000万円 その金額を山本は土地を担保に銀行から借りた。
コンビニで売る商品は3000種類酒屋時代の山本商店の6倍の商品数。
こうして昭和49年5月15日日本のコンビニエンスストア第1号店オープンの日を迎えた。
記念すべき最初に買い求めた商品は800円のサングラスだった。
客足は順調だった。初日店売上39万4千円
だが長時間営業の為アルバイト代や電気代
本部に支払うロイヤリティを差し引くと、
利益は以前と変わらなかった。
終章 快進撃
在庫の管理について見直した。現状のまんまでは在庫が増えるばかりそこで商品を小分けして問屋に配送してもらえば商品仕入単価を小さくできるし確実に店に在庫も減る。
当時の日本では商品をまとまった数で仕入れるのが常識だった。
しかしそれを実現した。鈴木はもう一つ革新なアイデアを口にした。
何が売れて、何がうれないのかすべての商品の売れゆき調べ上げた。まだコンピュータなどない時代です。手作業で調べた。
これが後に企業の成長に大きな影響を与えた。単品管理システムである。
山本商店を救った。
第1号店の山本商店の成功によって店舗はみるみる増えていきわずか2年で第一目標の69店を上回る100店に達した。アメリカは100店増やしのに25年かかった••
それを日本はわずか2年で実現した。
この年驚くべきニュース本家アメリカの経営危機の知らせがあった。
その後日本のノウハウはアメリカでも威力を発揮し破綻寸前のサウスランド社はわずか3年で黒字転換。アメリカ戦後最大の再建劇と呼ばれた。
スタートから17年目て平成2年4000店舗達成した。
流通に革命をもたらした日本のコンビニ
その大きなうねりの中心には流通の素人集団15人の姿があった。
完